和田一夫さんが死去しました。
スーパーヤオハン帝国を築き上げた実業家。
母は『おしん』のモデルの一人という話もあり、代々、伝説級の人物。
あらためて気になったので、母・田島(和田)カツさんの顔画像を探して見ました。
和田一夫 死去
和田一夫 死去のニュースは次のとおり。
*すでにご存知のかたはこの項目とばしてください。
→和田一夫 母は『おしん』のモデルの一人
熱海市を発祥の地とし、昭和から平成にかけて国内外に総合スーパーを展開した元国際流通グループヤオハン代表の和田一夫(わだ・かずお)氏が19日午前2時54分、老衰のため伊豆の国市の自宅で死去したことが28日、分かった。90歳。熱海市出身。
日本大経済学部を卒業後の1951年、両親の営んでいた熱海市の青果商、八百半商店に入社した。62年、八百半デパート設立とともに社長に就き、伊豆半島からチェーン展開に乗り出した。
高度成長期に国内の流通競争が激しくなる中、海外に活路を求めて71年にブラジル進出。以降、欧米や東南アジアで事業を広げ、最盛期には16の国・地域に約430店舗を持つ一大流通グループに育て上げた。
しかし、96年に国内事業を担っていたグループ中核のヤオハンジャパン(91年に八百半デパートから社名変更)の資金繰り悪化が表面化し、97年9月、静岡地裁に会社更生法の適用を申請した。バブル崩壊後の売り上げ低迷や資金調達のために大量発行した転換社債の償還難などが要因となった。負債総額は1600億円で当時、戦後最大規模の流通業の企業倒産だった。
破綻によりグループの全役職から退き、しばらくして経営コンサルタント業や講演活動を始めた。ヤオハンの成功と失敗からの教訓を経営者らに伝えた。
近年はふるさとの伊豆で暮らしていた。昨夏には熱海市で元社員らを招き「お詫(わ)びと感謝の会」を開いた。
ヤオハンジャパンはジャスコ(現イオン)の支援を受けて経営再建を果たし、2002年にマックスバリュ東海に社名を変更した。
葬儀・告別式は9月21日午前10時から、伊豆の国市四日町528の2のJAハートフルメモリー韮山会館で執り行う予定。喪主は妻きみ子さん。
*出典:和田一夫氏死去 元ヤオハングループ代表、90歳 昭和から平成、国内外に総合スーパー展開(@S[アットエス] by 静岡新聞SBS) – Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190829-00000001-at_s-l22
和田一夫 母は『おしん』のモデルの一人
『おしん』の原作者の橋田壽賀子さんは、『おしん』にモデルはいない、と言っています。
ただ、おしんがスーパーを創業したことから、スーパーヤオハン創業者の妻・和田カツさんがモデルではないか、とされることがしばしばあります。
おしんそのものは架空の人物ですが、昔の日本人女性のひとつの象徴として描かれていますので、和田カツさんもその一人、と数えてもいいのかも知れません。
ヤオハンの前身は青果商八百半という卸商で、田島半次郎さんが創業。
カツさんはその娘でしたが、奉公していた和田良平と結婚します。
その子供が和田五兄弟で、亡くなった和田一夫さんはその長男。
一夫さんは半次郎さんとカツさんからうけついだ小さな店を、一時は日本を代表する流通会社にまで成長させたことになります。
和田カツさんの顔画像
おしんのモデルの一人といわれる和田カツさん(和田一夫さんの母)の画像を探しました。
*画像出典:ヤオハン 和田カツ先生 その2 (燃える豆魂日記 【豆腐道とうふみち】) http://www.32102.jp/toukon/2007/11/post_657.html
にこやかな笑顔に温かみを感じる画像です。
和田一夫 死去 世間の反応
こちらはwebでの反応
*引用元:https://headlines.yahoo.co.jp/
モデルになっているという事で、放送時にかなり話題になったし。
ヤオハンには思い入れが大分ある。
NY州に居た時に最初に出来た本格的な日本人向け食品店が
ヤオハンだった。それまでは韓国人が経営する店にランダムに
置かれていたり、キッコーマンなどはアメリカで生産した醤油を
現地スーパーで販売したりしていたけど、日本の菓子類や日用雑貨
など本格的に扱ってくれたのはヤオハンだった。
始めて行って、サンリオの筆箱を親に買ってもらったのを
未だに覚えてる。
特にスーパーはGMSのブームに、西友のウォルマート買収に…
そして今ではアマゾンの台頭に代表するネットショッピングの台頭
以前アルペンの改革をテレビ特集で見ましたが、倒産や赤字転落の教訓というのは活かされるといいですね。
大手になるとなかなか、動きが鈍くなりますから
ご冥福をお祈りします
もっと、真剣にスーパーマーケットビジネスを追求してほしかった。
小学生の時地元の駅前に開店したときは本当にセンセーショナルでした。大きなデパートにいくには隣の市に行くしかなかったですから。
本も服も文房具もご褒美はヤオハンで買ってもらいました。
今ではめずらしくない、自分でトレイに乗せてレジに持っていくスタイルのパン屋もここが人生で初めてでした。
小さくなって行った時、駅前から撤退してしまった時、寂しかったなあ。
たくさんの思い出をありがとうございました。
まずご冥福をお祈りします。
ヤオハンは幼少期の思い出です。色んなモノを買ってもらいました。
熱海店がダイエーになってもヤオハンの面影が残っていたので、用もないのによく行きました。
リスクの高い出店や銀行との繋がりを指摘して
居る方が多く居ますが、借金無く自己資金で運営出来る事が最善案だと考えた結果だったのではないでしょうか?人口5万にも満たない熱海から世界中に300店も作った事は間違いなく功績だと思います。
約半世紀頃前ダイエーやヨーカ堂が隆盛を極める中, 日本ではどちらかと言えば伊豆あたりのマイナーなスーパーだったが1980年に香港島に駐在に赴任した時、ヤオハンの余りに立派な店舗を見て驚いた
当時は現地の日本人や現地人で大変賑わっていた
その後、日本の小売業としては初めて中国本土にも進出を果たし特に上海の新店舗は大規模で冷暖房完備で中国人には画期的な出来事で大変な人気だった
当時は未だ中国の規制が厳しい中,どんどん中国でビジネスを展開して当時の中国の時の権力者,登小平との蜜月を和田さんはマスコミにアピールしていたが、後年 日本での倒産が引金となり経営を中国資本に移さざるを得なくなってしまった
いずれにしても日本でマイナーを脱し切れず内需中心のスーパーとしては早過ぎるくらいに海外に活路を求めた 一世を風靡した異色の経営者だった
途中で経営破綻したとはいえダイエーと共に流通業を盛り上げて頂いた金字塔は残る。
かなり昔で有るがマレーシアに出向して居た時分、アンパンや梅干しが何処にも売って居なかった。
当たり前と言えば当たり前だが、ヤオハンに行けばそれが置いてあり現地の人にもアンパンは人気商品だった。
日本の流通業を海外にまで広げ開拓されて日本製品を世界中に知らしめた功績は大きなものが有ると思う。
和田一夫 死去!母はおしんモデル?〜まとめ
ダイエーと中内さんやマクドナルドの藤田さんなど、昭和の流通をになったひとたちの一人がまた旅立ちました。
ご冥福をお祈りします。
コメント